蛍(ゲンジボタル)のメスの発光器が発光する様子を動画にしてみた
よく目にするような長時間露光で撮影された蛍の名所の写真の様子。あれってとても綺麗なんだけど、その場の雰囲気をうまく切り取った表現というわけではなく、作品として綺麗と言った感じで、実際に現場で蛍を観ると全く印象が違う。
写真では蛍が発光して舞う光景はその軌跡にどこか鋭さや固さを感じるけれど、実際に観てみると「ふわふわ〜っ、す〜っ」と言った感じで光っては消えを繰り返し、その明滅の軌跡から受ける印象はとても柔らかく儚さを感じる。昔から人が蛍をどこか神秘的で不吉と感じたり、恋の象徴として扱ったり、儚さの象徴として扱ったりするのも納得できる。
夕されば蛍よりけにもゆれども ひかり見ねばや人のつれなき
紀友則(古今和歌集562)
音もせで思ひに燃ゆる蛍こそ 鳴く虫よりもあはれなりけり
源重之(後拾遺集216)
こういう素敵な表現に使われたり、『火垂るの墓』で作品の象徴として使われたり。
まあ、本当に近くでたくさんを観たらブーン!という羽音が凄くて、儚いなあ…しんみり…どころじゃないですけどねw ちっちゃなカブトムシの集団って感じで。
そんな蛍ですが、人間の生活環境の近くにたくさんいた昔と違い生息する場所がかなり限られているため見たことない人が意外と多い。なので最近は蛍を捕まえてきて、家で維持して、蛍を見たことがない人に実物が発光する姿を見せてます。
そんな蛍の発光器が発光する様子を今回は動画にしてみました。
なんの変哲もない光るだけの動画。端のほうが光が強くて真ん中にかけてブワッと発光していく。発光は化学反応によるものでルシフェリン、ルシフェラーゼ、酸素が関わって光るらしい。端から発光がブワッと真ん中にかけて広がっていくということは、気管から空気(酸素)を送り込んで反応を起こしているからなのだろうか。
画像で切り取ってみた。端のほうが発光が強いのがよくわかる。
では蛍はなんのために光るのだろう?成虫が光るイメージが強いので異性を呼ぶためと思いがちだけど、実は幼虫も光るし、更には卵の時から光る。ということで、光る理由はわりと複雑のようだ。
一部の蛍では発光がシンクロする現象が観測されていたり、車のハザードランプに蛍がよってくる現象も有名で、発光する能力を蛍同士でのコミュニケーションに使ってるようだ。
ただ、蛍に振動を与えたり、息を吹きかけて脅かしても明らかに発光が始まるので、その発光する能力を警告として使っている気もする。私が動画を撮影する時には暗くしただけではなかなか光らなかったため、振動を与えて光らせていました。
最後に蛍(ゲンジボタル)を眺めていて湧いた疑問があって。それは彼らが飛ぶ時は基本的に川の上や近くを飛ぶということ。流れに逆らって飛ぶこともあるし、沿って飛ぶこともある。道を挟んで池があってもその上は好まず川の上。野沢の流れの途中に橋がかかっているとその橋の上で迷ったように横に逸れてしまうことがある。でもフワフワと川の上にやがて戻ってくる。そして木立の中を流れる川ではわりと高い位置まで飛んでいるように感じた。気のせいかもしれないけれど。
彼らは何を感知してこのような行動をしているのだろう?もし、わかる方がいたら教えて欲しい。
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東大寺二月堂の修二会お水取りのお松明の火の粉を浴びてきた 〜前編〜
「 まだお水取りが終わってないので寒いね。終わったら春だね。」
これは奈良県民の間では日常会話の定番のやり取り。修二会(お水取り)は別に人々に春を告げる為に行われているものではなくて、ざっくり言えば実は万人の幸福を願うために行われている。燃える松明を使う有名な光景は実はほんの一部。この期間中、中では他にも様々な神事が行われている。なんといってもこの行事は1250年以上も毎年続いているというのが凄い。
お水取り|修二会|年中行事|華厳宗大本山 東大寺 公式ホームページ
二月堂は東大寺大仏殿から若草山の方へ少し歩いたところにある。眺めのいい場所だ。若草山に行く途中では毎回素通りする場所だが、修二会の期間中は夜だけでなく朝に何度か足を運んだ。
こういう場所。
石段。松明がセットされている。
ここを松明をもってダダダと走り抜ける。
お堂から下を眺める。この夜は芝生に人がぎっしり。
欄干の木の隙間に夜の名残がある。真っ白に燃え尽きている。
北茶所ではこのようにお松明の燃え差しが置いてある。わりと人気で次々と人がやってきて持って帰っていた。この茶所、中の雰囲気がとても良い。かなり古いが現役の釜が置いてあり、燃える薪が濛々と煤煙を上げていたのが印象的。ここでも動画なり写真なり撮ったら良かったな。
二月堂の欄干にはこんな凹みがある。この凹みにお松明をのせて安定させるのだろう。
松明を造っている光景は朝にいくと見ることができる。
これは籠松明。↑の松明とは大きさも作りもぜんぜん違う。
明るい場所でみると松明は本当に長い。そしてこの竹は京都の京田辺の観音寺から来たもの。私が部活動で走らされていた道の近くにあるお寺だ。その頃は竹が有名な地域とは知っていたものの、奈良とそんな縁があるとは知らなかったな。